2009/11
和算の発達と吉田光由君川 治


塵功記顕彰碑
 昭和52年に塵功記刊行350年を記念して、角倉家ゆかりの常寂光寺境内に吉田光由の顕彰碑が建立された。塵劫記の名前は天竜寺の老僧舜岳玄光が「塵劫来時糸毫も隔てず」(長い年月が経っても変わらない真理)から名づけたといわれている。  
 我々が小学校で習った算数では長さ・重さ・面積の換算の問題が多くあった。尺貫法からメートル法への変換の問題である。1里は36町、1町は60間、1間は6尺、1貫は3.75kg、1kgは267匁、など今は使わなくなった換算も子供の頃に憶えた数値は頭に残っている。今の小学生はこの苦労がないから幸せである。
 江戸時代は、生活に必要な計算を中心に数学が発達した。役人は田畑の面積を測量し、収穫する米の量(体積)を計算する、問屋や商人は重さや体積の計算や手数料の計算を必要とし、両替商は金・銀・小判の換算や利息の計算を必要とする。まさに実用数学である。
 中国から日本に数学が伝わったのは飛鳥時代と記録があり、中国の数学書「九章算術」をマスターすると算博士となり、官職に就けた。そろばんも16世紀に中国から伝わったと言われている。

 和算の歴史で最初に出てくる人物は、京都で「天下一割算指南」の額を掲げてそろばん塾を開いた毛利重能(もうりしげよし)である。毛利重能は池田輝政に仕えていた武士であった。この塾に通ったのが吉田光由、今村知商、高原吉種である。それぞれ和算の歴史に大きな足跡を残しているが、特に、江戸庶民への数学普及に大きな貢献をしたのは吉田光由であった。
 吉田光由といっても知らない人のほうが多いと思われるが、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)といえば多くの人が知っている。吉田家は代々医業を本業としているが、副業として金融業や土木事業を行っており、この副業には角倉と称していた。吉田光由の祖父・父・兄も医者であったが、次男であった光由は外祖父の了以や叔父の素庵から数学を学んだ。
 京都嵯峨野の亀山公園に角倉了以の銅像と顕彰碑がある。その業績を記した碑によると、徳川家康は今風のシンクタンクを作って角倉了以を駿府に呼び寄せた。先ず安南貿易を行わせ、その後大堰川・保津川、高瀬川の開削や富士川・天竜川の土木工事を行わせた。了以・素庵父子は土木工事や運搬業に必要な数学の知識を身に付けており、特に数学の得意な素庵は中国の数学書「算法統宗」を光由に教えた。
                   
 吉田光由の素晴らしいのは自ら身につけた数学の「算法統宗」を分かりやすい本に纏め、「塵功記」の名で出版したことだ。そろばんを使って計算する指導書であり、その目次を見れば実用的な本と判る。目次には次のような項目がある。
  ・金銀両替の事   ・利足の事   ・絹売り買いの事
  ・船の運賃の事   ・検地の事   ・川ふしんの事
 この本は江戸のミリオンセラーと言われるほどの人気本で、当時の版木印刷技術では発行部数は限られていたので、次々と海賊版が出回った。光由はニセ本を駆逐するため新たな内容を加えて改訂するが、著作権の無い時代で直ぐに又コピー本が出版される。最後に光由が試みたのが「遺題」と称して答えを示さない例題を載せたことだ。今度はこの「遺題」の解答本が出るようになるなど、吉田光由著作の「塵功記」が和算の普及に果たした役割は非常に大きかった。
  
 ところで京都の毛利重能、吉田光由に西洋数学の影響があるとの説がある。イタリア・ジェノヴァの名家出身の宣教師スピノラは慶長7年(1602年)に長崎に来て日本語を学び、慶長9年に京都に来た。彼は宣教師となるため神学・哲学を学んだほか、当時第一級の数学者クラヴィウスについて数学と天文学を学んだ。
 京都からイタリアに送った彼の書簡によると「日本人は天文学・数学などの科学技術に非常に興味を示す。布教のためには数学を教え、日本人に尊敬されることが効果的・・」と述べている。江戸の昔から日本人は科学技術や論理思考に関心が強かったようだ。その後、耶蘇教禁止でスピノラは捕えられ、4年間幽閉ののち長崎で殉教した。毛利重能と吉田光由の墓が見つかっていないことから、二人はキリシタンだったとも言われている。
 吉田光由が塵功記で試みた遺題は、その後の和算書で当然の如く続けられ、更には例題と解答を額に書いて神社や寺院に献納する風習が生まれた。
 算額は全国各地で沢山見つかっており、東京では府中の大国魂神社にあるというので見に行った。算額は宝物殿に大切に保管されているが、写真を撮らせてもらえず、また、古くて煤に霞んでとても読めない。(霞んでいなくても読めないかもしれない)
 幸い「大国魂神社奉献 関流和算額(写)」なる小冊子があり、「奉献 関流数学 小俣勇門人笑題」となっている。これを見ると全部で36人の問題と解答が記載されている。一寸試してみたが、とても簡単に解けるような易しい問題は無い、「笑題」とは畏れ入った。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)





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